教会では語られにくい部分に、正面から触れてみました。
この節を読んで励まされる人がいる一方で、傷つく人もいます。その両方が同時に起こりうるということを、書き手はおそらく想定していません。読む側が引き受けるしかない部分です。
16ἐφυλαξάμην καὶ ἐπτοήθη ἡ κοιλία μου ἀπὸ φωνῆς προσευχῆς χειλέων μου καὶ εἰσῆλθεν τρόμος εἰς τὰ ὀστᾶ μου καὶ ὑποκάτωθέν μου ἐταράχθη ἡ ἕξις μου ἀναπαύσομαι ἐν ἡμέρᾳ θλίψεως τοῦ ἀναβῆναι εἰς λαὸν παροικίας μου
17διότι συκῆ οὐ καρποφορήσει καὶ οὐκ ἔσται γενήματα ἐν ταῖς ἀμπέλοις ψεύσεται ἔργον ἐλαίας καὶ τὰ πεδία οὐ ποιήσει βρῶσιν ἐξέλιπον ἀπὸ βρώσεως πρόβατα καὶ οὐχ ὑπάρχουσιν βόες ἐπὶ φάτναις
18ἐγὼ δὲ ἐν τῷ κυρίῳ ἀγαλλιάσομαι χαρήσομαι ἐπὶ τῷ θεῷ τῷ σωτῆρί μου
ハバクク書 3:16-18(七十人訳(ギリシャ語))
文脈を無視して一節だけを引くと、まったく逆の意味になることがあります。実際、この節は都合よく引用されることが多い箇所です。だからこそ、前後を含めて読み直す価値があります。
2預言者イザヤの書に、 「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、 あなたの道を整えさせるであろう。
マルコによる福音書 1:2(口語訳(日本語))
この節を読んで励まされる人がいる一方で、傷つく人もいます。その両方が同時に起こりうるということを、書き手はおそらく想定していません。読む側が引き受けるしかない部分です。
2悲しみの家にはいるのは、 宴会の家にはいるのにまさる。 死はすべての人の終りだからである。 生きている者は、これを心にとめる。
伝道の書 7:2(口語訳(日本語))
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