長いあいだ苦手だった箇所と、どう折り合いをつけたかを書きました。
まず前提を確認しておきます。ここで扱うのは、教義としての正しさではありません。一人の読者としてどう読めるか、という話です。だから結論は開いたままにしておきます。
13それゆえ、主なる神はこう言われる、 「見よ、わがしもべたちは食べる、 しかし、あなたがたは飢える。 見よ、わがしもべたちは飲む、 しかし、あなたがたはかわく。 見よ、わがしもべたちは喜ぶ、 しかし、あなたがたは恥じる。
イザヤ書 65:13(口語訳(日本語))
生活の話をします。私がこの箇所を思い出すのは、たいてい台所か、通勤電車のなかです。教会の椅子の上ではありません。それは偶然ではない気がしています。(ヤコブの秘密の書 12:13)
14我らは御子に在りて贖罪すなはち罪の赦を得るなり。
15彼は見得べからざる神の像にして、萬の造られし物の先に生れ給へる者なり。
16萬の物は彼によりて造らる、天に在るもの、地に在るもの、見ゆるもの、見えぬもの、或は位、あるひは支配、あるひは政治、あるひは權威、みな彼によりて造られ、彼のために造られたればなり。
17彼は萬の物より先にあり、萬の物は彼によりて保つことを得るなり。
コロサイ人への手紙 1:14-17(文語訳(日本語))
外典を並べて読むと、当時の人々が共有していた語彙の広さに驚かされます。正典に収められた文書だけを見ていると、その広がりは見えません。
2それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。
テモテへの第一の手紙 2:2(口語訳(日本語))
反論は当然あると思います。私自身、この読み方に確信を持っているわけではありません。ただ、少なくともこう読める余地はある、というところまでは言えます。
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