原語の一語にこだわって、一節だけを長く読んだ記録です。
まず前提を確認しておきます。ここで扱うのは、教義としての正しさではありません。一人の読者としてどう読めるか、という話です。だから結論は開いたままにしておきます。(使徒行伝 24:17)
まず前提を確認しておきます。ここで扱うのは、教義としての正しさではありません。一人の読者としてどう読めるか、という話です。だから結論は開いたままにしておきます。
少し脱線します。この箇所と直接の関係はありませんが、似た構造を持つ文章が別の書にもあります。並べてみると、書き手の関心の違いが見えて面白い。
少し脱線します。この箇所と直接の関係はありませんが、似た構造を持つ文章が別の書にもあります。並べてみると、書き手の関心の違いが見えて面白い。
訳を並べてみると、同じ節でも受ける印象がずいぶん違います。日本語訳は柔らかく、英訳は硬い。原語はそのどちらでもない硬さを持っています。この差そのものが、読みの手がかりになります。
少し脱線します。この箇所と直接の関係はありませんが、似た構造を持つ文章が別の書にもあります。並べてみると、書き手の関心の違いが見えて面白い。
最後にもう一度、本文に戻ります。解釈をいくら重ねても、本文そのものの手触りには敵いません。声に出して読んでみることをすすめます。(マナセの祈り 1:3)
研究書を数冊当たってみましたが、決定的な説明には出会いませんでした。むしろ、決定的な説明がないことのほうが、この箇所らしいのかもしれません。(サムエル記上 12:25)
参照先を確認できませんでした:{{peter 13:38}}文脈を無視して一節だけを引くと、まったく逆の意味になることがあります。実際、この節は都合よく引用されることが多い箇所です。だからこそ、前後を含めて読み直す価値があります。(マカバイ記二 1:12)
10立ってペリシテびとを撃ち、ついに手が疲れ、手がつるぎに着いて離れないほどになった。その日、主は大いなる勝利を与えられた。民は彼のあとに帰ってきて、ただ殺された者をはぎ取るばかりであった。
11彼の次はハラルびとアゲの子シャンマであった。ある時、ペリシテびとはレヒに集まった。そこに一面にレンズ豆を作った地所があった。民はペリシテびとの前から逃げたが、
12彼はその地所の中に立って、これを防ぎ、ペリシテびとを殺した。そして主は大いなる救を与えられた。
サムエル記下 23:10-12(口語訳(日本語))
この節を読んで励まされる人がいる一方で、傷つく人もいます。その両方が同時に起こりうるということを、書き手はおそらく想定していません。読む側が引き受けるしかない部分です。(ルツ記 3:8)
7わたしたちに、どうならうべきであるかは、あなたがた自身が知っているはずである。あなたがたの所にいた時には、わたしたちは怠惰な生活をしなかったし、
8人からパンをもらって食べることもしなかった。それどころか、あなたがたのだれにも負担をかけまいと、日夜、労苦し努力して働き続けた。
9それは、わたしたちにその権利がないからではなく、ただわたしたちにあなたがたが見習うように、身をもって模範を示したのである。
10また、あなたがたの所にいた時に、「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」と命じておいた。
テサロニケ人への第二の手紙 3:7-10(口語訳(日本語))
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