通読の途中で立ち止まった箇所について、立ち止まったまま書きました。
この節を読んで励まされる人がいる一方で、傷つく人もいます。その両方が同時に起こりうるということを、書き手はおそらく想定していません。読む側が引き受けるしかない部分です。
この箇所を初めて読んだとき、正直なところ意味が分かりませんでした。分からないまま何年も抱えていて、あるときふと別の角度から光が当たったように感じたのを覚えています。今から書くのは、その角度についてです。
まず前提を確認しておきます。ここで扱うのは、教義としての正しさではありません。一人の読者としてどう読めるか、という話です。だから結論は開いたままにしておきます。(ヨハネの第一の手紙 4:19)
ここで一度、歴史のなかに置いてみます。この文章が書かれた時代、読者は何に困っていたのか。それを想像するだけで、言葉の温度が変わってきます。
結論を書きます。と言っても、答えではありません。私はこの箇所を、命令ではなく約束として読むことにしました。理由は、そう読んだほうが自分が生きやすいからです。それが正しい理由になるかどうかは分かりません。
49そこで民もまた皆おのおのその枝を切り落し、アビメレクに従って行って、枝を塔によせかけ、塔に火をつけて彼らを攻めた。こうしてシケムのやぐらの人々もまたことごとく死んだ。男女おおよそ一千人であった。
士師記 9:49(口語訳(日本語))
この一語をどう訳すかで、段落全体の意味が変わります。翻訳者はどこかで決断しなければならず、その決断はもう解釈です。読む側はそれを知っておいた方がいい。
生活の話をします。私がこの箇所を思い出すのは、たいてい台所か、通勤電車のなかです。教会の椅子の上ではありません。それは偶然ではない気がしています。(ヨナ書 3:9)
研究書を数冊当たってみましたが、決定的な説明には出会いませんでした。むしろ、決定的な説明がないことのほうが、この箇所らしいのかもしれません。
この一語をどう訳すかで、段落全体の意味が変わります。翻訳者はどこかで決断しなければならず、その決断はもう解釈です。読む側はそれを知っておいた方がいい。
外典を並べて読むと、当時の人々が共有していた語彙の広さに驚かされます。正典に収められた文書だけを見ていると、その広がりは見えません。(イエスの語録 P.Oxy 5575 2:1)
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